こんにちは、逍遥館です。
たいへんご報告が遅くなりましたが、6月9日(火)に今年度最初のグレート・ブックス読書会、「 「思い出」で読み解く『銀の匙』」が開催されました。
今回も当館スタッフが鋭意作成!の特製ポスターでお出迎えです。
高校生のときに現国の授業で読んだことがある方も多いと思いますが、『銀の匙』は明治の終わり頃、当時27歳だった中勘助が初めて書いた散文。
夏目漱石にその作品が認められ、東京朝日新聞に連載されたことから、彼の文章の独自性や美しさが注目されるようになりました。
今回の読書会は、単に作品を味わい、その内容を読み解くのではなく、コーディネーターの守谷克文さん(公共政策大学院 修士課程)からの
「(『銀の匙』は)ありていにいえば、作者である中勘助の思い出をただただ書き連ねただけのものである。そんな本書が多くの人を感動させるのは、その単なる「思い出」が、人間の根幹にとって欠かせない何かだからではないだろうか。」
という投げかけに参加者が思いを巡らせる会になりました。
まず、『銀の匙』の簡単なあらすじと、和辻哲郎の解説(収録:岩波文庫)が紹介され、
― 何が『銀の匙』を際立たせるのか
― 純粋な思い出とは何か
という問いかけがあり、
続いて、参加者が自分の記憶をたどりつつ、守谷さんのさらなる問いかけに答えていきます。
― 幼少期の思い出はありますか?
― 大人になってからの思い出と比較して、どちらが「純粋」な思い出ですか? なぜそう思いますか?
そして、考察は現代の私たちにとっての「思い出の価値」にも及びます。
― 現代人は経験という名の「思い出」によって評価される。自身を築き上げるために「思い出」を蓄積しなければならない。
例えば、SNSに投稿される個人の経験に関する写真や記事。
「いいね!」が「見たよ~」という挨拶程度の意味であれば気楽なのですが、
「いいね!」の数=自分の存在価値の尺度 になっていたら
「いいね!」を得るために次々と新しい「思い出」を意図的に作り続けていたら
その「思い出」は一体何なんだろう…。
― 思い出の本当の価値、あるいは意味とはなんでしょうか。
参加者の方々の間で個々の思い出にまつわる話や意見が交わされ、
また、守谷さんが教育実習に行かれた経験から
灘校の『銀の匙』授業で有名な故・橋本武先生の指導方法や、先生の
「すぐ役に立つことは、すぐ役立たなくなる」
「国語はすべての教育の基本であり、学ぶ力の背骨」
といった教育論の紹介があり、これらについても意見が交わされていました。
― 授業とは、学校とは、子どもに何を教えるべきなのでしょうか。
さてさて、皆さんはどう思われますか?
読書会後のアンケートには、このような声が寄せられました。
・銀の匙は一部だけ読んだことがあって、すごく文章がきれいだったのを思い出して今日参加しました。最近何かをするにしても、それを経験するのが大事だからという意味でやっていた気がします。とても興味深い話でした。
・「読書会」なので、読後の感想を多くの人と紹介し合うのがおもしろい。(が、今日は随分発展したテーマまで話題が及んでそれもまたよいかと)
・「私」と「思い出」のかかわりについて考える機会となってよかったです。
『銀の匙』は、主人公が語る思い出が、自分ひとりが見聞きした経験ではなく、必ず他者とのかかわりの中でうまれた事柄が語られていることに、何か意味があるように思ったり。
多くの子ども達がひとりひとりの成長を見守り、支えとなってくれる大人に出会い、その経験が「良い思い出」として心のどこか片隅に残って、何かの折りに思い出し、慰めや支えになればいいなと思います。
そして私たち大人にも、これからもずっと良い出会いと良い思い出にたくさん巡り会えますように。
そしてそして、読書会は「本との出会い」「人との出会い」の場。
知らない本がテーマでも何だか気になる…そう感じたら、その時です。
いつでもどうぞお気軽にご参加ください。
** 参考図書 **
「銀の匙」(中勘助:作 改版 岩波書店 1999 / 岩波文庫 緑(31)-051-1)
「奇跡の教室 : エチ先生と『銀の匙』の子どもたち : 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀」(伊藤氏貴:著 小学館 2010)
「灘中奇跡の国語教室 : 橋本武の超スロー・リーディング」(黒岩祐治:著 中央公論新社 2011 / 中公新書ラクレ394)
(MY)